- 指導者と選手には権力勾配があるためです。
- スポーツ界でハラスメントが表面化しにくい背景には、監督・コーチが指導権だけでなく、評価権、選抜権、試合出場、推薦・進路など、選手の競技人生に影響する複数の権限を持つ構造があります。その中で選手が「嫌です」「助けてください」と意思表示することは、自分の競技人生に影響する可能性を伴う意思決定となります。
- 重要なのは、選手に声を上げる勇気を求めることではなく、なぜ言えないのかを組織側が考えること。相談・評価ルートの分離、複数の情報経路、選考の透明性、相談後の安全確保など、「声を上げても競技人生を脅かされない構造」をつくることが、Safe Sport Governanceの重要な要素です。
スポーツ界でハラスメントや不適切指導が発覚したとき、
「なぜもっと早く相談しなかったのか」
「嫌なら嫌と言えばよかったのではないか」
「相談窓口はあったはずだ」
という疑問が向けられることがあります。
しかし、スポーツ組織における「相談できるか」という問題を、選手本人の勇気やコミュニケーション能力だけで考えることはできません。
なぜなら、選手と指導者の間には、一般的な人間関係とは異なる強い利害関係が存在するからです。
監督やコーチが握っているのは、単なる「指導する権限」だけではありません。
指導権 × 評価権 × 選抜権 × 出場機会 × 推薦・進路 × キャリアへの影響力
こうした複数の権限が一人の指導者に集中すれば、選手にとって「嫌です」と言うことは、単なる意思表示ではなくなります。
自分の競技人生に影響する可能性を伴う意思決定になるからです。
スポーツハラスメントを防ぐためには、「選手が声を上げること」を求めるだけではなく、なぜ声を上げられなくなるのかという構造を見る必要があります。
「嫌なら断ればよい」が成立しにくい理由
例えば、指導者から不適切な言葉を繰り返し浴びせられている選手がいるとします。
第三者から見れば、「やめてくださいと言えばよい」「別のコーチに相談すればよい」と思うかもしれません。
しかし、その指導者が、
- レギュラーを決める
- 試合に出す選手を決める
- 大会のメンバーを選ぶ
- 推薦に関与する
- 上位チームへの昇格に影響する
立場だったらどうでしょうか。
選手は当然、その後に起こることを考えます。
「言ったら試合に出してもらえなくなるのではないか」
「扱いが変わるのではないか」
「自分だけ指導してもらえなくなるのではないか」
実際に不利益を受けるかどうかとは別に、選手がその可能性を合理的に懸念する関係であれば、自由な意思表示は難しくなります。
スポーツでは「評価されること」が競技機会に直結する
一般企業でも、上司は部下を評価します。そのため、職場のハラスメントにも権力関係があります。
スポーツでは評価の結果が、より直接的かつ即時的に本人の活動機会へ結びつくことがあります。
「次の試合に出られるか」
「大会メンバーに入れるか」
「代表に選ばれるか」
「推薦してもらえるか」
「プロとして契約できるか」
しかも、選手生命には時間的制約があります。
重要な大会は来年まで待ってくれないかもしれません。
年齢によっては、その一度の選考がキャリアを大きく左右することもあります。
そのため選手は、「正しいことを言う利益」と「競技機会を失うかもしれないリスク」を比較せざるを得なくなります。
単純な勇気の問題ではありません。
「本人が同意していた」だけでは判断できない場合がある
この権力関係は、セクシュアルハラスメントを考える際にも重要です。
例えば、強い評価権や選抜権を持つ指導者と選手との間で、私的な交際や身体的接触などがあった場合です。
選手が明確に拒絶していなかった。
表面的には同意していた。
それだけをもって、直ちに対等な関係での自由な意思決定だったとは判断できません。
「断ればレギュラーから外されるかもしれない」
「指導を受けられなくなるかもしれない」
「競技団体の中で悪く言われるかもしれない」
これらのような懸念がある関係では、本人の意思形成そのものに権力関係が影響する可能性があります。
スポーツ界における同意を考えるときには、「YESと言ったか」だけではなく、「NOと言える関係だったか」を見ることが重要です。
「相談窓口があります」だけでは相談できる組織にならない
多くのスポーツ団体で、相談窓口や通報制度の整備が進んでいます。
これは重要な取り組みです。
しかし、相談窓口が存在することと、相談できることは同じではありません。
相談窓口があっても、
「相談したことが監督に伝わるのではないか」
「誰が相談したか推測されるのではないか」
「チーム内で居づらくなるのではないか」
「大事にした選手と思われるのではないか」
と選手が考えているなら、制度は利用されません。
特に小規模なチームでは、匿名で相談しても内容から本人が推測されることがあります。
制度を設置するだけではなく、選手から見て、その制度を利用することが安全であるかまで考える必要があります。
指導者に相談しなければならない制度の矛盾
さらに注意したいのが、相談ルートと指揮命令・評価ルートが重なっているケースです。
例えば、「何か困ったことがあれば監督に相談してください」という制度です。
通常の問題であれば機能するでしょう。
では、問題の原因がその監督自身だったらどうでしょうか。
あるいは、監督と非常に近い立場のコーチが問題の当事者だった場合はどうでしょうか。
評価する人と、相談を受ける人が同じ。
この構造では、深刻な問題ほど情報が上がらなくなる可能性があります。
一定の規模やリスクを持つスポーツ組織では、指導・評価ラインとは別の情報経路を確保することが重要になります。
沈黙をつくるのは「報復」だけではない
相談後の不利益というと、露骨な報復を想像しがちですが、選手が恐れているのは必ずしも明確な報復だけではありません。
以前ほど話しかけてもらえなくなる、
練習で細かな指導を受けられなくなる、
「扱いづらい選手」と見られる、
チームメイトとの関係が微妙になる、
保護者同士の関係が悪くなる、
重要な場面で「総合的判断」によって選ばれなくなるーー
このような変化は、不利益だったのか、純粋な競技上の判断だったのかを外部から判別することが難しい場合があります。
ゆえに選手は慎重になります。
「報復を禁止します」と規定するだけでは、沈黙の問題を完全には解決できません。
「チームのため」が沈黙を生むこともある
もう一つの重要な要因が、集団規範です。
スポーツでは、
「チームのために」
「仲間のために」
「大会前だから」
「今は波風を立てるべきではない」
という価値観が強く働くことがあります。
チームへの帰属意識は、本来大きな強みです。
しかし、それが、問題を表に出さないこと=チームへの忠誠という認識に変われば、問題になります。
選手が相談しようとしたとき、「今言ったらチームに迷惑がかかる」「大会が終わるまで我慢しよう」と考える。
そして大会が終わると、「もう終わったことだから」となる。
こうして問題が長期間表面化しないことがあります。
「声を上げなかった選手」に責任を移さない
問題が長期間続いていた場合、「なぜ言わなかったのか」という問いは、原因分析として必要になることがあります。
しかしその問いを、本人の責任追及に使うべきではありません。
組織が問うべきなのは、「なぜ、この選手は言えなかったのか」です。
例えば、以下のような分析が必要です。
- 指導者に権限が集中していなかったか
- 相談先が指導者しかなかったのではないか
- 選考基準が不透明ではなかったか
- 相談後の保護措置が不足していなかったか
- チーム内に異論を嫌う文化がなかったか
必要なのは「Speak Up」だけではなく「Listen Up」
ハラスメント対策では、しばしば、「困ったら相談してください」「声を上げてください」と呼びかけます。
もちろん重要ですが、声を上げる責任を選手側だけに負わせてはなりません。
必要なのは、Speak Upできる選手をつくることだけではなく、Listen Upできる組織をつくること。
問題が深刻化する前から、組織側が情報を取りに行く仕組みです。
例えば、
- 定期的な選手面談
- 匿名アンケート
- 指導者以外とのチェックイン
- 第三者相談窓口
- 選手代表との定期対話
- 退団・引退時のヒアリング
こうした複数の情報経路を組み合わせれば、「重大な被害を受けた選手が自ら通報する」ことだけに依存しない組織になります。
評価権をなくすのではなく、評価のガバナンスをつくる
監督やコーチから評価権をすべて取り上げることは現実的ではありません。
選手を最もよく見ている指導者が、競技上の評価を行うことには合理性があります。
問題は、評価権が存在することではなく、それがブラックボックス化することです。
例えば、
- 選考基準を可能な範囲で明確にする
- 重要な選考には複数の視点を入れる
- 評価理由を説明できるようにする
- 相談した選手への評価変化を必要に応じて確認する
- 重大な利害関係がある場合には第三者を関与させる
このような仕組みによって、指導者に必要な裁量を残しながら、権限濫用のリスクを下げることができます。
選手だけでなく、適切に指導している指導者を守る制度でもあります。
選手の勇気ではなく、組織の構造で守る
スポーツハラスメント対策に必要なのは、選手に「もっと勇気を持って声を上げよう」と求め続けることではありません。
評価権や選抜権を持つ指導者との関係、
限られた競技人生、
チームへの帰属意識、
仲間との関係、
将来への影響ーー
こうした条件の中で沈黙することには、選手なりの合理性がある場合があります。
「なぜ言わなかったのか」ではなく、「なぜ言えない構造になっていたのか」を問う。
相談窓口を設置するだけでなく、評価・選抜と相談ルートを可能な限り分離し、複数の情報経路を設け、相談後の安全性を確保する。
そして、問題が発生してから選手の声を待つだけではなく、平時から組織が選手の声を把握する。
スポーツ人権・ガバナンス研究所(SHRGI)は、こうした仕組みをSafe Sport Governanceの重要な要素と考えます。
目指すべきは、「声を上げられる強い選手」をつくることだけではありません。
声を上げるために、選手が自分の競技人生を賭けなくてもよい組織をつくること。
それが、スポーツ組織に求められるガバナンスです。
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- ケンズプロは、ハラスメント等心理社会的リスクを管理し、健康的な心理社会的職場環境を実現するための組織ガバナンス設計・実装支援ファームです。
