「ハラスメントに過剰反応する時代」なのか―沈黙が前提だった社会からの構造転換

「最近はハラスメントに過剰反応しすぎて、世の中が窮屈になった」

ハラスメント研修や社内ルールの整備を進める過程で、こうした声を耳にすることは少なくありません。
とりわけ、長く組織に身を置いてきた層ほど、この感覚を率直に語る傾向があります。

しかし、この違和感の正体は本当に「社会が過敏になった」ことなのでしょうか。

結論から言えば、そうではありません。

私たちは感受性が急激に変化した時代に突入したのではなく、沈黙を前提として成立してきた社会構造から、可視化と説明責任を前提とする構造へと移行する過程にいます。

昭和の時代にも、不快は存在していた

「昔は問題にならなかった」「みんな笑って受け流していた」——こうした言葉は、当時の空気感を表しているようでいて、実態を正確に示してはいません。

昭和の時代にも、

  • 嫌だと感じる人
  • 不快や違和感を覚える人
  • 怖さや屈辱を感じていた人

は、確実に存在していました。

違っていたのは感情そのものではなく、それを表に出せる条件です。

当時の職場には、

  • 年功序列と終身雇用
  • 上司の評価が生活や将来を左右する構造
  • 「和を乱すな」「我慢は美徳」という規範
  • ハラスメントという言語や相談ルートの不在

が重なり合っていました。

不快を表明することは、単なる感情の表出ではなく、キャリアや居場所を失うリスクを伴う行為だったのです。

沈黙は美徳ではなく、合理的な生存戦略でした。

「問題にならなかった」は、「問題がなかった」ではない

現在でもなお、「昔は問題にならなかった」という言葉は繰り返し使われます。

しかし、実務の現場ではすでに明確です。

問題にならなかった = 問題が存在しなかった

ではありません。

多くの場合、それは次のような状況を、後から都合よく単純化した表現にすぎません。

  • 問題にしても救済されなかった
  • 問題にした人が不利な立場に置かれた
  • そもそも何と呼べばよいか分からなかった

「問題にならなかった」という言葉は、制度と構造の未整備を覆い隠すための後付けの物語であることが少なくありません。

「世の中が窮屈になった」と感じる理由

では、なぜ今になって「窮屈になった」と感じる人が増えているのでしょうか。

それは、これまで無意識のうちに享受してきた自由の一部が、調整され始めているからです。

かつては、

  • 空気
  • ノリ
  • 個人の裁量

によって成立していた言動が、いまでは、

  • 第三者からの説明可能性
  • 組織としての合理性
  • 他者が拒否できる余地

という視点で見直されるようになっています。

これは自由の剥奪ではありません。

他者の沈黙に依存して成立していた自由が、社会的ルールへと置き換えられている——それが、いま起きている構造転換です。

可視化によって、初めて守られる人がいる

ハラスメント研修の場で、「萎縮するようになった」「何を言ってよいか分からなくなった」という声が上がることがあります。

この反応自体は、異常ではありません。行動を見直す必要が生じれば、一定の抑制感が生まれるのは自然なことです。

重要なのは、その一方で、

  • これまで不安を抱えながら働いていた人
  • 声を上げられなかった人
  • 空気に合わせて耐え続けてきた人

が、ようやく安心できる環境に近づいている可能性がある、という事実です。

すべての人が同じように快適になる改革は存在しません。

環境整備とは、安心と負担を再配分する行為でもあるのです。

過剰反応ではなく、構造の正常化

現在起きている変化を「過剰反応」と捉えるのは正確ではありません。

それは、

  • 感情論の暴走
  • 個人攻撃の横行

ではなく、

これまで無視されがちだった不快や不安を、組織として扱うための正常化プロセスです。

説明可能な基準を持ち、属人的な我慢に依存しない。

その状態は、窮屈さではなく、組織が成熟していく過程に他なりません。

終わりに

ハラスメントをめぐる社会の変化は、「自由か、規制か」という単純な二項対立では整理できません。

問われているのは、

  • 誰の沈黙の上に、これまでの自由が成立してきたのか
  • その前提を、これからも維持するのか

という点です。

不快を感じる人が急に増えたわけではありません。

不快を無視しない社会に、ようやく足を踏み入れただけなのです。

投稿者

株式会社 ケンズプロ
株式会社 ケンズプロ
ハラスメントを排し、個の真価を最大化する。ケンズプロは、日本の技術が世界を席巻する『正道』を論理で描く、組織ガバナンスの専門パートナーです。